(ルパン三世の話ではありませんので、念のため)
とあるミーティングの中で、「次元が違う」「次元が低い」という話がありました。
「次元」という言葉のこういう使い方は、サラリーマンだったころにはよく聞いたのですが、最近は耳にしていませんでした。
でも、この言葉がちょっと心に引っかかったので、考えてみようと思います。
Wikipediaによると、「次元」にはいくつかの意味があるようです。
1)空間の広がりを表す指標の一つ
2)数学や計算機における、要素の配列の長さ
3)物理的単位の種類
ちなみに、「次元が違う」というのは転用表現であり、”かけ離れていること”を意味するそうです。
定義としてはそうかもしれませんが、会話の中で「次元が違う」「次元が低い」という文脈で使われるときには、もう少し違う意味を含んでいるように思います。意味というよりも感情なのかもしれません。
例えば、自分を正当化していたり、相手を蔑んでいたり、自分を卑下していたり。
もしかすると、「次元は高い方がいい」という思い込みが根底にあるのかもしれません。
私自身も、最近までは無意識にそう思っていました。
でも今は少し違うかもしれません。そう思い始めたのには、きっかけがあります。
昨年、子供と博物館に行き、そこで里山の自然に関する展示を見ていました。
部屋の床の一角に森の地面を映しているプロジェクターがあり、その横に(+)と(-)と
表示されています。
足で(+)に触れると、画面が拡大していって最後は原子の世界に。(-)に触れると
画面が引いて行って最後は宇宙空間の絵になります。
地面は「平面」と認識しがちですが、拡大していくとその奥には砂粒、さらには原子、
素粒子といった「3次元」が続いています。
今の現実世界はよく「3次元の世界」だと言われていますが、このように、
3次元の世界の中には別の三次元の世界がいくつも織り込まれているのです。
(子供番組で「ブロッコリー、切っても切ってもブロッコリー」というのがありました。閑話休題)
ですから、先の話題でいうと、次元が高い/低いことが問題なのではなく、
多くの次元があるということを認識しているかどうかどうかが問題のだと思います。
そして、次元の一つに時間軸があることを考えると、違う時間軸を生きてきた歴史がある
他人が、自分と同じ次元にいることは、ありえないことなのではないかと思います。
そう考えると、「次元が違う、次元が低い」といって他人を判断する人自体も、次元が
固定されているのかもしれませんね。
これを別の言い方をすると「多様性を受け入れる」ことなのかもしれません。
と、悟ったようなことを書いていますが、先日、妻と息子の喧嘩を横で聞いていて「また同じ喧嘩だ。次元が低いな~」と思ってしまったことは内緒です。